めったに間違ったことは心に刻まれていない 慶應への国語 井上靖 ━吾が一期一会━ 1 慶應義塾普通部・慶應義塾湘南藤沢中等部・慶應義塾中等部対策
あじさいの花を美しいと思うようになったのは、おとなになってからである。梅雨期の重く湿った大気の中に静かに咲いている薄紫の花は、なかなかいいと思う。雨をしっとりと吸って重たげでもあり、多少憂うつげでもあり、こうしたこうした時期に咲かねばならぬ花としてのあきらめも持っている。
問 あじさいの花は、なぜ「花としてのあきらめ」を持っているのですか。
幼いころ、私はこの花に好意を持っていなかった。私の育った伊豆の山村にはこの花はなかったが、私たちが御料局と呼んでいた東京営林局天城営林署の敷地の中だけに、あじさいの株が幾つかあった。子供たちはそこを遊び場としていてよく集まったが、私はそこだけに見られる薄紫の花を何となく他の花とは異なった特別の花として感じていた。陰気な感じでいやだった。
問 幼いころの「私」は、なぜあじさいを「特別の花」と感じたのですか。
子供のときはなべて花というものに好意の感情など持たなかったし、さして美しいとも美しくないとも感じなかったようである。桜が咲こうと梅は咲こうと無関心であり無頓着であった。そういう点からいえば、私の場合あじさいだけが例外であった。この花だけに幼い私は好きでないものを感じていたのである。私は幼い者の感覚は非常に確かだと思う。何となくあじさいの花を他の花とは異なった特別な花として感じているのは、現在でも同じことなのである。
問 「幼い者の感覚は非常に確かだ」というが、それはなぜですか。
幼いころの私の感じ方は、そういう点ではいささかも訂正する必要はない。ただ異なるのは、幼いころはきらいだったが今は好きになっているということ、それからもう一つ異なるのは、幼いころに何となく特別な花として感じたその特別であるということに対して、今の私が表現を与えることができるということである。幼いころはなぜ特別な花かわからなかったが、今の私にはそれを説明することができるのである。
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