慶應への国語 井上靖 ━吾が一期一会━ 2
このあじさいの場合と同じように、幼いころ外界の事象から心に受けとめているものは、そして心に深く刻みこまれているものは、その事象の本質につながるなかなか大切なものではないかと思う。めったに間違ったことは心に刻まれていない。ただおとなになってからでないと、それに表現を与えることができないだけのことである。
幼時、祖母と土蔵で暮らしているとき、庭のすみを流れている小川で毎朝のように顔を洗っていた。そうしたあるとき、いつもその洗い場に置いてある洗たく石けんをいたずらして川に流してしまったことがある。石けんは私の手からぬけ出し、水の中を生きもののように泳いで、どこかへ行ってしまったのである。
ただこれだけのことを今でも覚えているということは、その小さい事件から受けたものが容易ならぬものであったからである。石けんを川に流してしまったので祖母にしかられる。そうした心配もあっかも知れないが、それだけなら一生忘れることのできないような心への刻まれ方はしなかったに違いないと思う。
今の私には、その石けんを流したときの幼い私を襲ってきたものに表現を与えることができる。それはおそらく完全に物を失い、それを再び取りもどすことはできないという喪失感であったに違いないと思う。実際にまた、それ以後私はそのように完全に物を失ったことはない。もし同じ経験をおとなになってからしたら、その瞬間だけでかたづいてしまう事件、石けんを川に流してしまった、それだけで終わることなのである。
問 「石けんを流したときの幼い私を襲ってきたものに表現を与える」とありますが、本文ではどのような表現を与えていますか。
問 もしおとなだったら、「石けんを川に流してしまった、それだけで終わる」とはどういうことですか。
しかし、幼い私にとっては、それは容易ならぬ事件であった。もう再び取り返すことのできない完ぺきな形で物を失ったのであり、確かにそれは一生忘れることのできないほど深く心に刻まれるに足る事件であったのである。こうしたことを拾っていくと、幼い者の世界にはおとなの世界よりももっと重大な、しかも本質的意味をそなえた事件がたくさん起こっている。
やはり幼いころ、魔法びんを壊したことがある。どうしてそんなことをしたのかわからないが、私は空の魔法びんを横にして畳の上を転がしたのである。すると魔法びんはごろごろと転がっていって柱にぶつかった瞬間、私の耳にはいってきた破壊音は何ともいえず決定的なものであった。むしろ静かな音であったが、どこかにむざんな徹底的破壊を告げるものがあった。その後魔法びんの壊れる音は聞いたことがないが、幼時に耳にした破壊音は今も私の耳に、いや正確に言うなら私の心に残っている。
問 幼いころ魔法びんを壊したとき聞いた音は「何ともいえず決定的なものであった」というが、なぜそのように感じたのですか。
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