中学受験家庭教師-『塩狩峠』-国語専科
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三浦綾子 『塩狩峠』
しぶしぶと信夫はたちあがった。
「わたくしもいっしょにまいります」
菊も立ちあがった。待子はすでに夕食の途中でねむってしまっている。
「菊。信夫は四年生の男の子だ。ひとりで行けないことはあるまい」
学校まで四、五丁ある。菊は困ったように貞行をみた。
外に出て、何歩も歩かぬうちに、信夫はたちまち雨でずぶぬれになってしまった。まっくらな道を、信夫は爪先でさぐるように歩いていった。思ったほど風はひどくはないが、それでも雨にぬれた、まっくらな道は歩きづらい。四年間歩きなれた道ではあっても、ひるの道とは全く勝手がちがった。
つまらない約束をするんじゃなかった。
信夫はいくども後悔していた。
(どうせだれもきているわけはないのに)
信夫は貞行の仕打ちが不満だった。ぬかるみに足をとられて、信夫は歩きなずんだ。春の雨とはいいながら、ずぶ濡れになった体が冷えてきた。
約束というものは、こんなにまでして守らなければならないものだろうか。
わずか四、五丁の道が、何十丁もの道のりに思われて、信夫は泣きたくなった。
やっと校庭にたどりついたころは、さいわい雨が小降りになっていた。暗い校庭はしんとしずまりかえって、何の音もしない。だれかいるかと耳をすましたが話し声はなかった。ほんとうにどこかからか女のすすり泣く声がきこえてくるような、不気味なしずけさだった。集合場所である桜の木の下に近づくと、
「誰だ」
と、ふいに声がかかった。信夫はぎくりとした。
「永野だ」
「何だ、信夫か」
信夫の前の席に並んでいる吉川修の声だった。吉川はふだん目だたないが、落ちついて学力のある生徒だった。
「ああ、吉川か。ひどい雨なのによくきたな」
だれもくるはずがないと決めていただけに、信夫はおどろいた。
「だって約束だからな」
淡々とした吉川の言葉が大人っぽくひびいた。
約束だからな。
信夫は吉川の言葉を心の中でつぶやいてみた。するとふしぎなことに、「約束」という言葉の持つ、ずしりとした重さが、信夫にもわかったような気がした。
ぼくはおとうさまに行けといわれたから、仕方なくきたのだ。約束だからきたのではない。
信夫は急にはずかしくなった。吉川修が一段えらい人間のように思われた。日ごろ、級長としての誇りを持っていたことが、ひどくつまらなく思われた。
問 「吉川修が一段えらい人間のように思われた」とありますが、信夫はなぜそう思ったのですか。
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「みんな、こないじゃないか」
信夫はいった。
「うん」
「どんなことがあっても集まるって約束したのにな」
信夫はもう、自分は約束を守ってここにきたような気になっていた。
「雨降りだから、仕方がないよ」
吉川はいった。
その声に俺は約束を守ったぞというひびきがなかった。信夫は吉川をほんとうにえらいと思った。
問 信夫が「吉川をほんとうにえらいと思った」のはなぜですか。
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塩狩峠(北海道和寒町)は天塩と石狩の国境にある険しい峠である。明治四十二年二月二十八日の夜、急坂を上りつめた列車の最後尾の連結器が外れ、客車が後退しはじめた。偶然、乗り合わせていた鉄道職員・長野政雄がとっさの判断で、線路に身を投げ出し自分の体で客車をとめた。長野のは殉職、乗客は救われた。
三浦はこの話を旭川のキリスト教会で、長野の部下だった信者から聞いた。「熱心なキリスト者」、「犠牲死」の二つのキーワードが作家の心をうったのだろう。病身の綾子さんは、さっそく夫の三浦光世に付き添われ現場に足を運んだ。そして評論家佐古純一郎の勧めで月刊誌「信徒友」に連載、「永野信夫」を主人公にした物語がはじまった。(by 名作の舞台 鯰のひとりごと)
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